向かいのマンション。
あそこに、私と同い年くらいの男の子が住んでいる。
うるさくセミが鳴く八月。
高校も夏休みに入ってしばらく経ち、今日も朝から日差しがきつい。
それでも私は今日もバルコニーに立ち、あの男の子を待つ。
あの男の子、とは向かいのマンションに住んでいるくせっ毛のテニス少年のことだ。
夏休みに入って私は暇な時間を過ごしていた(というか、中学のときから文化部な私は夏休みなんて毎年暇なんだけど)。今年も机の上には学校の課題が積み重ねられているが、暑いし、勉強をやろうなんて気は全く起きない。だいたいまだ高2だというのにこの課題の量はなんなんだ。まだ受験勉強に本腰を入れるには早すぎる。
そんな退屈な日常の中で見つけたのが、その男の子だった。
私の家は二階建ての一軒家で、二階にはバルコニーが付いている。
私は夏休みが始まって少し経ったある日、何の意味もなく朝からバルコニーに出て外を眺めていた。バルコニーに出て外を見渡すのは元からすきだったが、こんなに早くから(しかもパジャマで)バルコニーでボーっとしていたのはその日が初めてだった。寝ぼけ眼で家の前の小さい道路を見ていると、会社へ向かうサラリーマンや花に水をやるおばあさんなど、日中には見れない人たちが沢山いて新鮮だった。
そうやってしばらく辺りを観察していると、隣のマンションの入り口からひとり、制服姿の男の子が飛び出してきたのだ。「やべー遅刻する!」と、よく通った声が聞こえてきたと思ったら、彼の姿はあっという間に見えなくなってしまった。電光石火のように現れ消えてしまったが、その小柄な体型には見合わない大きなテニスバックを抱えていたこと、そして、なかなかないであろうあのくせっ毛頭がわたしの中で妙に印象づいてしまった。
次の日の朝も早く起きてしまったため何気なくバルコニーに出ていたら、またあの男の子が走って私の目の前を通り過ぎて行った。昨日と同じ格好で。
それからだ。私がその男の子を毎日見るようになったのは。
彼を見るようになってから1週間。彼はいつも7時半よりちょっと前(20分くらい)に家を出てくることがわかった。30分に出てきたら「やべー!」と言っていることが多いことにも気がついた。
そしてまた新しい週が始まっての月曜日。今日は珍しく朝7時15分頃マンションから出てくる彼を見た。今日はゆっくり歩いてる。格好はいつもと同じ制服。夏服だからよくわからないけど、私が思うにあのネクタイは立海のものではないかと考えている。何年生かはわからないけど、とりあえず私より年上ではないだろう。いつかこっちを向いてくれないかと思っているが、やっぱり今日も向いてくれない(まぁでもパジャマだし見られない方がいいのかも)。いっそ一日中ここにいて帰りも見ようか。
火曜日。今日も7時15分にマンションから出てきた。昨日と同じように歩いているということは7時15分だと余裕があるということだと思う。でも今日は昨日と違うところがひとつ。テニスバックが3分の1くらい開いていて、そこからジャージと思われるものが覗いていた。オレンジっぽいような赤っぽいような色。私の家の前を通ったところでその閉め忘れに気付いたらしく、歩きながらファスナーを閉めていた。しかしその途中「あっ!」と大きな声が聞こえ、彼はしゃがみこんでしまった。何かと思って見てみると、さっきのジャージと思われるものを出してひっぱっていたため、多分ファスナーにジャージがはさまったのだろう。それが取れた頃には7時22分。彼は走って学校に向かっていった。南無。
水曜日。今日はいつもよりかなり早い7時10分に出てきた。早い割に焦ってるし、寝ぐせもちょっとひどい。ネクタイもしてない。何か食べながら家を出てきたのか、口がちょっともごもごしてる気がする。寝坊したのかなあ、と思ったけどその焦る姿が何か可愛くて思わず笑みがこぼれてしまった。
その瞬間、彼が一瞬こっちを見た。
多分、目が合った。どきっとしたけど、2人の距離はそこそこあるから私は目をそらさなかった。彼はその視線を下げて私の家の玄関辺りを2秒くらいじっと見ると、そのまま全力疾走で行ってしまった。何だったんだろう?
木曜日。今日彼が出てきたのは7時25分だった。結構焦ってたのかマンション出てすぐの3段くらいの階段でつまずく。今日もこっちを見るかなと思って、一応無難な部屋着に着替えていたのに、彼は私の家の前を走って通り過ぎて行ってしまった。なんか、寂しい。
その後、居間に行って何気なく父親が読んでいた新聞を覗くと、地区のテニス大会の結果が載っていて、見出しに大きく『立海大付属高校』の名前があった。驚いて父親から新聞を奪う。ぶつぶつ文句を言う父親を無視し記事を読むと、立海が一位になったという記事だった。そんなに有名だったのかとびっくりして、今度は急いで身支度を整え近所の本屋に月間のテニス雑誌を立ち読みしに行く。すると運良く立海が紹介されていて、メンバーの集合写真が載っていた。指でひとりひとりの顔を追っていくと・・・いた。このくせっ毛。間違いない。
名前は、載ってなかった。けど、苗字は獲得。
“切原”くん
学年も載っていて1年生だった。ひとつ年下。
たったこれだけだけど、新しい発見をした。うれしい。
金曜日。今日も7時25分だった。学校に間に合うのかと私が不安になった。ガチャーンと結構近くで音がして、その方を向くとうちの隣の家(マンションと逆側の隣)のおじいさんが、植木鉢を割ってしまっていた。そのおじいさんが植木鉢を片付けているのを見ていると、私の視界の端にあのくせ毛頭が駆けて行くのが見えた。しまった、ちゃんと見れなかった。残念だけど仕方ない。
土曜日。うっかり寝過ごす。雨だったけど部活はあったのだろうか?
日曜日。またまたうっかりして今度は熱を出してしまった。風呂上がりにノースリーブでそのまま寝てしまったためかもしれない。自業自得だ。なんだか2日も連続して見れないと落ち込んでくる。私は彼に恋でもしているのだろうか?よく、わからない。
次の日の月曜日の朝も具合が悪くて、彼を見ることが出来なかった。気分が乗らない。これはきっと熱のせいだけじゃないと思う。一日一回彼を見ないと落ち着かないのは事実。
火曜日。頑張って早起きしてみた。まだちょっと調子は治ってないけど大丈夫。けれど彼は現れなかった。へこむ。
その日の夜、月が綺麗な満月を描いていたのでバルコニーに出て眺めていた。星もいつもより沢山出ているように思える。どれが北極星で、そっからどこまでが北斗七星なのかなんて小学校や中学校で習った知識を思い出して空を眺めていた。
すると、隣のマンションの方から「あっ!」という声が聞こえた。
その声に反応してマンションの方を向くと、私のいるところから少し見上げた3階のバルコニーに、人影があった。後ろから光が当たっているせいで、顔は暗くてよく見えない。けれど、あの見慣れたくせっ毛が毎朝のあの“切原くん”だという確信を強めていた。
どきどきする胸を深呼吸して抑えて、おそるおそる手を振ってみた。すると3階の人影も大きく手を振ってくれた。それはもう両手でぶんぶんと。このままどうしたもんかと手を上げたまま考えていると、彼は一旦家の中へ入ってしまって、それから3分くらいしてまた戻ってきた。
すると彼は手でよけるような動作をした。何だかよくわからないけれど、とりあえず、ずっとよけてよけてという動作をしているようだったので、端によけてみる。
と、その時、ばこんっという音と共に何かが私のうちのバルコニーに飛んできた。びっくりして私はバルコニーの端っこに目をつぶって縮まる。それから恐る恐る目を開けてみると、コロコロと転がる物体が一つ。手にとって見るとかなり柔らかいゴムボールだった。そのボールを手に、3階を見上げてみると、もう人影はなくて。私はそのボールを手にバルコニーから部屋へと入った。
手の中のゴムボール。部屋の明かりに照らしてみると汚い字で何か書かれていた。
『立海大付属高1年 切原赤也 メールください』
くるくるボールを回してみると下の方にまたまた汚い字でアドレスが書いてあった。
私はすぐに携帯電話を取り出し、彼のアドレス宛でメールを打つ。
『今さっきゴムボールをもらった者です。あのボールはわたしにくれたものですか?』
ガタガタに書かれたアドレスの読み取りが正しいのか不安になりながらも、一応送信完了。
すると、すぐに返事が返ってきた。どきどきしながら受信ボックスを開く。
そこには、確かにさっきのアドレスからの返信があった。
『初めまして。切原赤也です、赤也って呼んじゃってください。そーです、さっきはあなたに向けてボールを投げました。危ないことしてすいません。でも、どうしてもこの前目が合ってから気になって仕方ないんで、投げちゃいました。てゆーか、この間、目合いましたよね?!よかったら、友達になってください!で、よかったら名前から教えてもらってもいーですか?メールしてください!』
そう書いてあって。
そのあとに三行空けて、こうあった。
『毎朝俺のこと見るより、もっと俺のこと知れると思いますよ?』
年下のくせになかなかやるじゃんコイツ、と思いつつ、わたしの名前を載せたメールを送信する。
ひさびさに感じる高揚感。
今年の夏はきっと、もう暇じゃない。
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