今日は三ヶ月振りに会えるとずっと楽しみにしていた。待ち合わせは黄瀬くんのバスケの練習が終わる時間に合わせての19時30分。大学の授業が終わって16時、そこから一度帰宅し、着替えてから出掛けたとしても十二分に間に合う予定だった。
あの電話が鳴るまでは。
「さん、急に連絡してごめん!実は今日急性胃腸炎で一人欠勤になって、どうしても人手が足りなくて・・・」
電話はバイト先の店長からだった。携帯の画面に“バイト先”と表示された時点で嫌な予感はしていたけれど、いつもお世話になっている手前、どうしても無視することができず出てしまった。
「無理を承知でのお願いなんだけど・・・今日なんとか出てもらえたりしない?」
少しでもいいんだ、そう店長は言った。確か今日はキャンペーンの一斉開始日。店長が無理を言う人ではないことはわかっているので、きっと藁にもすがる思いでかけてきたのだろう。それがわかってしまったからこそ、即座に返答するのを躊躇してしまう。答えは最初から決まっているのに。この数週間、今日のために少し無理をしてでもバイトに出ていたのだ。今日休みをもらうことだけを約束に。
「すみません、今日だけはどうしても・・・」
なんとかそう告げる。すると、少しの間が合って「そうだよね、ごめんね」と落胆したような店長の声が聞こえてきた。決して悪いことをしているわけじゃないのに、どうにもこうにも胸が痛む。だけど、今日は久しぶりの黄瀬くんとのデートなのだ。今日会えなければ、またいつ忙しい彼と会えるかわからない。
「本当にすみません」
「いや、無理言ってるのはこっちだから謝らないで。近くの店舗にもお願いはしてるんだけど、どこもいっぱいいっぱいみたいで、なかなかつかまらなくって。でも、なんとかするよ。さん今日のお休み、ずっと楽しみにしてたもんね。ごめんね急に無理なお願いしちゃって」
「それじゃ、楽しんでね」そう言う店長の声の後ろではずっと、館内アナウンスがひっきりなしに鳴っていた。わたしは自分の腕時計を見る。店舗から待ち合わせ場所までは30分あれば行ける距離だ。行ける、きっと大丈夫。すうっと息を吸って、告げた。
「店長、19時まででよければヘルプ行きます」
辿りついたバイト先を表から覗くと、そこは戦場のようだった。店内は人でごった返しており、スタッフの姿がどこにあるかもわからないような状態だった。急いで裏へまわり、作業に入る前に黄瀬くんへメールを打つ。『急にバイトが入っちゃったけど、待ち合わせまでにはちゃんと行くからね!』と。するとすぐに返信がきた。
『りょーかいっス!っちファイト!p(^▽^)q』
その黄瀬くんらしい顔文字に思わず笑みがこぼれる。
「・・・よし、行くか!」
携帯をロッカーへしまって、わたしは戦場への扉を開いた。
それから暫く夢中で働いた。店長すら店内を駆けまわっているようで、本当に猫の手も借りたいくらいだった。そんな中でも、途中わたしを見つけた店長はわざわざお礼を言うために駆け寄ってきてくれた。「19時少し前には上がっていいからね」そう言ってくれた店長に、わたしは「はい」と短く返事をしてすぐに仕事に戻った。
そうして刻一刻と時間は近付いてきた。時計を見るたびに黄瀬くんの顔が浮かび、その笑顔と目の前の現状とに挟まれて泣きたい気持ちでいっぱいになった。途中で抜けたって責められないことはわかっている。だけど、目の前には休む暇なく働くスタッフと、今か今かと待っているお客様で溢れかえっていて。
19時少し前。わたしはトイレ休憩をとって、ロッカーに戻り黄瀬くんにメールを打った。
『ごめん、バイト抜けれそうになくて今日行けない』と。
最後まで打って、本当にこれでいいのか自分に問いかける。いいわけない。だけど目の前の状況を投げ出すこともできない。ズキンズキンと痛む胸を抑え、わたしは送信ボタンを押した。“送信完了”の文字が表示され、それは一瞬でぼやけて見えなくなる。慌てて袖で涙を拭い、深呼吸を数回繰り返す。自分で決めたこと、そう言い聞かせ全ての思考を仕事へ注ぐことに徹した。
そして22時くらいになった時だった。裏で在庫の整理をしていると、店長の驚いた声がした。
「え!?さん!?ちょっ、まだやってくれてたの?!19時前には抜けていいって・・・」
「あ、店長お疲れさまです。いえいえ、わたしがやりたくてやってたので大丈夫です」
「そうは言ったって、今日・・・」
「いいんです、でも今日の分どこかお休みくださいね?」
店長の言葉を遮り、そう笑って言う。店長の口からその続きを聞いてしまったら、泣いてしまうと思った。“今日あんなに楽しみにしてたのに”、それはわたしが一番わかってるー・・・そう考えただけで目に涙が浮かんできて、わたしは口をぎゅっと結んだ。そんなわたしを見て、店長はわかってくれたんだろう。それ以上余計なことは何も言わず、「もう上がって?今日は本当にありがとう」と、優しい顔で言ってくれた。
店長の言葉に素直に頷き、家に着いたのは時計の針が23時を指す頃だった。玄関の扉を開け真っ暗な部屋を見た瞬間、涙が浮かんだ。帰宅途中、携帯を開いてみても黄瀬くんからの返事はなかった。きっと怒っているに違いない。わたしが一方的に全て台無しにしてしまったのだから。
電気も点けずに靴を脱ぎ、玄関の段差を登ろうとしたところで手前のブーツか何かに躓く。思い切り左足のくるぶしを壁に打ち付け、その場にうずくまった。
「痛い、痛いよ・・・っ」
堰を切ったように涙が溢れ出てきて、ぼたぼたと頬を伝って流れ落ちた。痛いなんて、ただのこじつけに過ぎなかった。悲劇のヒロイン振るつもりなんてない。だけど、本当に今日が楽しみだったのだ。会いたいのにわがままを言って困らせたくなくて、いつも「大丈夫だよ」って言ってきた。そうして堪えて、やっと今日会えるはずだったのに。そう思えば思うほど涙は止まってくれなくて、そのまま声を殺して泣いていると、上着のポケットの中で携帯が震えた。
ごそごそと携帯を取り出し画面を確認すると、滲んだ視界、暗がりの中浮かび上がった画面には『着信 黄瀬くん』の文字。驚いて嗚咽が止まる。ブーブーと手の中で二回ほど鳴らしてから、ひとつ息を吸って応答ボタンを押した。
「もしもし、っち?」
「・・・黄瀬くん、」
「おつかれっス!今日大変だったんスか?・・・あ、いまダイジョーブ?声聞きたくなっちゃって」
聞こえてきたのは、いつもと変わらない黄瀬くんの明るい声だった。その声に安心して、また目に涙が浮かぶ。
「・・・っ、黄瀬くん、」
「・・・っち?」
「・・・あの、今日は本当にごめんね、わたし、わたし・・・っ」
「っち、ひょっとして泣いてる?」
黄瀬くんの言い方は明るかったけれど、その中にどこか確信めいたものがあった。ホント、こういう時の黄瀬くんの鋭さには参ってしまう。気付いてほしい時には気付かないのに、気付いてほしくない時に気付かれてしまう。
何とか取り繕おうとそっと深く息を吸って、ゆっくり吐き出す。大丈夫、きっと普通にできる。
「んー・・・とね、今思いっきりくるぶしぶつけちゃって、痛いなーって・・・」
そう言うと、電話の向こうにいる黄瀬くんは黙ってしまった。我ながら苦しい言い訳だとは思う。ただ、実際にくるぶしには鈍い痛みがあるから完全な嘘ではない。
少しの沈黙の後、小さなため息のようなものが聞こえて黄瀬くんが口を開いた。怒られる、と思ったけど聞こえてきた言葉は違った。
「・・・で。くるぶしは大丈夫っスか?」
「う、うん、だいじょーぶ。ちょっとジンジンするけど」
「泣くほど痛かったっスか」
「そうだよ、黄瀬くんに会いたくて会いたくてぶつけちゃったんだよ」
少しの本音をのせ、そう告げた。黄瀬くんは「え、オレのせいなんスか?」と笑う。ちっとも怒らない。きっと、バイトのせいでドタキャンせざるを得なかったわたしのことを考えてくれてるんだと思う。だけど、今はそんな優しさがつらかった。わたしはこんなにも黄瀬くんに会いたかったのに。
どうしようもなく涙が溢れてきて、下唇を強く噛みしめる。今口を開いたら、嗚咽だけじゃなく彼を傷つける言葉を放ってしまいそうだった。携帯電話を持つ手にも力が入る。
「・・・っち?もしもし?」
急に押し黙ったわたしに、黄瀬くんが呼びかけてくる。
「もしもーし」
「・・・黄瀬くんのばーか」
「ちょ、なんスかそれ」
黄瀬くんが笑う。ごめん、黄瀬くん。可愛くなくてごめん。
「やさしすぎなんだよーばーか・・・」
「だからっち、」
「ばーかばーか」
「ちょ、いくらなんでも言いすぎっス、」
「・・・ばーか、なんで怒んないのよう・・・あいたいよきせくん・・・」
瞬間、笑っていた黄瀬くんが息を呑んだのがわかった。
マズイと思った時には、遅かった。
聞こえてきたのは、黄瀬くんの酷く真剣な声。
「っち、いま家?」
「黄瀬くん、わたし大丈夫だか、」
「オレの質問に答えて」
「・・・・・・」
「家?」
「・・・うん」
「わかった。多分、いや絶対今日中に行くから。待ってて」
「ちょっ、黄瀬く、」
わたしが呼びとめるより早く、一方的に通話が切れる。
暗がりの中浮かび上がる『通話終了』の表示を、わたしはぼんやりと見つめた。
2013/9/24 なつめ
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