突然の出来事に自分だけが取り残されてしまったと思っていた
あなたはずっと わたしの気付かないところで俯いていたのに








     渇 い た 雲








―――忍足に彼女ができたらしい。

そんな噂が流れた。ある日突然、何の前触れもなく。信じられなかった。忍足と曖昧な関係を続けてきたのはわたし。特別な存在としての忍足を求めながらも、臆病に負けて友達という関係を選んできたのはわたし。だけど、そうやってこれたのも忍足に特別と呼べるような女の子がいなかったからだ。今となっては単なる自惚れに過ぎないが、当時忍足の一番近いところにいたのはわたしだと思っていた。それがどういう意味の「近い」だったかまではわからない。だけど、他に親しそうな女の子や気にしている女の子もいないようだったのにどうして、と思わずにはいられなかった。



噂を耳にした日の放課後、わたしは忍足のクラスへと足を運んだ。どうしても噂を信じることができなかった、というより、ただ単に信じたくなかったのだ、と思う。

(いてほしい、いないでほしい 確かめたい、確かめたくない 会いたい、会いたくない)

不安と焦りと、そして肯定されるかも否定されるかもわからない問いを抱え、わたしは意を決して彼の教室後方のドアから教室内を覗き込んだ。ギシッと音を立てた足元の敷居。その音に窓際の席にひとり座っていた人物がこっちを向く。何かを読んでいたらしいその人物は逆光で表情はわからなかったけど、まさしく。

「・・・?」

聞き慣れた声がわたしを呼んだ。いつもなら安心するその声、響きに、胸がざわついた。忍足の元へ行こうと足を踏み出す。体は前に進む。その反面、真実を知ってしまうのがこわくて、心は後戻りしたがっていた。戻れないことなんて、わかっていたけれど。

「あのさ、忍足」

彼の前の席に横座りし、忍足の手元にある雑誌に視線を向けて話しかけた。彼の視線はどこにあるのかなんて考えられなかった。開いていた窓から風が――いっぱいいっぱいで焦るわたしを涼めることなく――通り抜けていく。同時に雑誌のページがめくり上がる。彼はそれを手で軽く遮りながら、いつもと変わらない口調で返した。

「ん、どしたん?」
「うん、あのさ」
「うん」
「えっと、」
「うん?」
「・・・うん、あのね・・・」
「早よ言いって」

なかなか言い出さないわたしに痺れを切らしたのか、忍足はひとつ息を吐いた。顔を上げると、忍足はわたしを見ていて、瞬間互いの視線が絡む。今までならそんなことは平気だったのに、わたしは反射的に顔を逸らしてしまった。しまった、と思ったけど遅かった。とにかくわたしはこわかったのだ。何が?忍足が?質問の答えが?この時にはもう何がこわかったのか、よくわからなくなっていた。漠然とした大きな不安が胸の中に渦巻いていて、肝心なことはまだ何も聞けていないのに、その大きなかたまりに飲み込まれそうになり必死にもがいていた。と、同時に目に若干熱がこもってきたのがわかり、慌てて耐えろ、耐えろと強く繰り返す。

そんないつもと違う様子のわたしを見て、勘の鋭い忍足は気付いていたのかもしれない。わたしが忍足に聞こうとしていることを。だっていつものノリなら、「なにしとんねん」とか言って雑誌で頭をぽんと叩かれてもおかしくないようなところだったから。

ぎゅ、と目をつぶり下を向いたまま、覚悟を決めて重い口を開いた。

「え・・・とね」
「ん」
「か、彼女できたって本当・・・?」
「・・・・・・・・・」

短い沈黙。でもそれがわたしには息が詰まりそうなくらい長く感じられた。

「・・・ホント?」

沈黙に耐えられず、もう一度聞く。すると忍足は再び雑誌へ目を戻して口を開いた。

「・・・まぁ、な」

その言葉に、一瞬で頭の中が真っ白になった。ショックというにはあまりにも大きすぎて、一瞬で頭も体も何もかも動かなくなった。自分がどこを見ているのかさえわからなかった。

目の前の忍足が雑誌のページを開く。その音を聞いて、我に返った。何も考えられなくなった頭に、最初に浮かんできた言葉は、「どうしよう」。

(どうしよう どうしよう わたしはおしたりになんていったらいいの?)

ぐるぐると頭の中を「どうしよう」という言葉が回る。けれど、焦れば焦るほど言葉は何ひとつ浮かんでこなくて。挙句、忍足との間の空気に耐えられなくなったわたしの口から咄嗟に出てきた言葉は、至極ありきたりなものだった。

「そ、そっか!お、おめでとう」

自分の動揺が悟られないように平静を装ったつもりが、少し上擦ってしまった。けれど忍足は体勢を変えずに「あぁ」と言っただけで、会話が続かない。必死にわたしは言葉を探した。

「か、彼女って誰?わたしの知ってる子?」

言ってからまた、しまったと思った。詮索してどうなる?逆に苦しくなるだけではないのか。そう後悔するも、忍足は表情を変えずその質問に答えた。

「・・・一年のマネージャー。昨日告られてん」

テニス部にはマネージャーが何人かいる。わたしも何度か部活を見に行っていたから、マネージャーの顔くらいはわかるようになっていた。学年まではわからないけれど、みんな可愛い子ばかりなのは確かだ。そしてひとつ年下だなんて、なおさら可愛いんだろう。

「テニス部マネって可愛い子ばっかじゃん!大切にしてあげなよ!」

心にもないことだった。どこかで「冗談やって」と笑う忍足を期待していた。しかし、現実はそううまくいくものではなくて。「わかっとるって」――と、あっさり返された言葉に、わたしは目の前にいる忍足が遠く離れていくような感覚に陥った。同時に今までのわたしの勝手な思い違いが確かになって、悲しさと恥ずかしさ、そして何より寂しさで、胸の中が熱くなった。じわりと目頭が熱くなり、涙が込み上げる。けれど、わたしはわたしの精一杯で笑った。心の底から祝ってあげることはできないけれど、わたしのだいすきな忍足の幸せには違いないから。

(おめでとう、良かったね)

口に出したら堪えた涙がこぼれてしまいそうだった。だからその分の笑顔を精一杯で向けたんだ。そしたらぼやけた視界の中で、忍足の目が大きく開いたように見えた。そりゃそうだ、忍足が何をしたわけでもないのに目の前で泣きそうになってるわたしがいるんだから。何か上手な言葉でごまかさなくてはと、またわたしは口を開く。

「あーでも寂しくなるなあ」
「なんで?」
「だってほら、もう忍足とバカ話とかできなくなるでしょ」
「なんでやねん」
「わぁなにそのベタなツッコミ」
「お前なぁ・・・、そんなワケあるか」
「え?」
「何もと友達やめる言うてへんやろ」
「や、そこまで大袈裟には言ってないけど」
「なら今まで通りでええやん」
「え、でもそれじゃ、彼女に勘違いとかされるかもしれないし」
「ブッ、そないな心配せんでええって」
「・・・どういうことよ」
とおってもそーゆう風には見られへんって」
「ひっどーい!」

忍足の手元にある雑誌を抜き取って、バフッと忍足の頭の上に載せる。「なにすんねん」と忍足は雑誌に手をやりながらも、少し呆れたように笑っていた。わたしも笑った。きっとたぶん、さっきよりは自然な笑顔で。

きっと今まで通り、なんていかないだろう。明日から、少しずつ何かが変わっていくんだ。
でも、忍足の言葉が嬉しかった。そう言ってくれることが嬉しかった。

じわり、とまた内側から熱いものが込み上げてくる。もうこれ以上は話をつなげられる自信がなかった。黒板の方を振り向き、時計を見る。何も用はなかったけれど、「もう行かなきゃ」と忍足を残して席を立つ。

「またね」
「ほなな」

そう言葉を交わしてわたしは足早に教室前方のドアへ向かう。ドアの敷居を跨いだとき、後ろからポツリと一言聞こえたような気がした。空耳と思って、わたしは立ち止まることなく教室を出てしまったけれど。


だから、気付かなかった。


わたしの後ろ姿を見つめていた忍足の目が、悲しそうに曇っていたことに。
そして忍足が消え入りそうな声で言った一言に。



「・・・何も変わらへん。何も、な」



それは、わたしに届かなかった言葉。










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UP:2004/10/10  TOUCH IN:2008/11/13
なつめ



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